トヨの「今日も眠いです」

睡眠時間がとにかく長い猫~トヨ 2017年3月14日、永遠の眠りに就きました

2017年05月

ここは、トヨのブログ。
トヨのことを、トヨに関わることを書く場所。
トヨの居ない今、ここをどう扱えばいいのだろう、どう捉えればいいのだろう。
と、少し考えてしまう。


トヨは、私の生きるモチベーションだった。
大袈裟だが、事実。







とよちゃん。
私は、
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猫と暮らしたいです。


本当はトヨを触りたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨを腕枕したいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨと見つめ合いたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨと鼻ポチしたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨに上目遣いで見られたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨに触れられたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨに起こされたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨと窓際に並びたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨを抱きたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨに甘えたいです。


猫と暮らしたいです。


本当はトヨと暮らしたいです。










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答えは、猫。
トヨからの宿題。
答えはずっと前から出ている。
正解なのかな。
まだ、わからない。
解き方を間違えていないかどうか、確かめる時間も必要。


私はどう生きていくのかな。


ここは、トヨのブログ。
トヨに新たな出来事は起きない。
トヨの新たな写真を撮ることもない。








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トヨはいい猫だった。







もうひとつのトヨの『今日も眠いです』








いつの頃からか、ひとりで過ごすことが好きになり、ひとりで過ごすことが楽で、何をするでもなく部屋でひとり過ごすことが平気な性格になった。
誤解なきよう説明するが、世の中と縁を断ち切るということではない。ひとりではないという強い思いがあるからこそひとりで過ごすことが出来る、ということである。


そんな訳で、在宅中、一言も言葉を発することなく静かに過ごすこともしばしば。
トヨと暮らす以前からそんなことはあった。
トヨと暮らすようになってからもそんなことはあった。


トヨは静かな猫だった。
時にはわがままを言うことも走り回ることもあったが、年齢を重ねてからは益々静かな穏やかな猫になった。
お互いに静かに過ごすことが好きだったから導かれるように出会ったのか、それとも、出会ってからどちらともなく静かに過ごすことが好きになったのか、もしかしたら私はもともと静かなことが好きだったことに気が付いておらず、トヨが静かな猫だから私も静かなことが好きになったと自覚するようになったのか、よくは分からないが今となってはそんなことはどうでもいい。











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移動時、大きめの音量で音楽を聴いている。
イヤーレシーバーを耳に挿したまま帰宅し部屋に入るが、そのまま大きめの音量で音楽を聴き続けることは止めた。
音楽を止めるタイミングはもう難しくない。
部屋の静寂もまた、すっかり日常になった。


そんなある日、深夜になってもなかなか眠くならず、スマホに残してあるトヨの写真データを見た。


「とよちゃん」


思わず声が出た。
帰宅して数時間、初めて発した言葉だった。
静かな声ではあったが、その自分の声に少し驚いた。
小さな頭を私の左手に乗せたままの、最期を遂げたトヨの顔写真。
最早こちらは見えていないはずなのに、こちらを見ているかのような瞼の開いたトヨの最期の顔写真。
いつでもその写真を見ると、私の目には涙が滲んでくる。
分かっているのに、見てしまった。


「わたしは、あなたの願う通りになる」


猫の先生はそう言った。
自分の心持ちをそこに落ち着かせたいと、私がそう言わせた。


写真のトヨに声をかけたかった。
トヨに話しかけたくなった。
きっと、その時はそうしたかった。
無意識だった。


忙しさにかまけて、あまり考える時間がない。
今の私にはその方がいいのかもしれないが、トヨからの宿題を片付けるためのゆったりとした時間も欲しい。
しかしながら、答えは、わかっている。
初めからわかっていた。
本来は、猫にかまけて考えることを先延ばしにするべきなのだろうけど。
その猫が居ないのだから、仕方ない。
時々は私の脳裏に静かに居眠るトヨに話しかけ、答えのわかった問いを静かにじっくりと解いていく。










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もうひとつのトヨの『今日も眠いです』









ただの宮崎県人。


ある日、猫と暮らすことになっただけの、ただのダメ人間。
そんな私がある日トヨと出会い、猫を知り、やがて知を愛することになった。


いやいや、そんな大層なものではない。


ただ、トヨのことを知りたい、と考えただけ。トヨは何故ここにいるのか、私のもとへ何しにやって来たのか、残された私はどうすればいいのか、ただ悩んだだけ。


トヨの存在が私を変えた事実に揺るぎはない。今は不在だが、全てトヨが仕組んでいたことだとしたら、猫というのはなんと賢い生き物であろう。












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私を励まし、慰め、寄り添い、共感し、見守ってくださった方々に感謝しています。
いただいたコメントにすぐに返事が出来ずにいたことをお許しください。





海母さま
ありがとう。
私の心の揺らぎにいつも寄り添ってくれて、ありがとう。
貴女の言葉で私の心の内が整理されたことが度々ありました。
比翼連理と美しく表現してくれて、ありがとう。


ミセスねこさま
ありがとう。
チャビちゃんへの思いと重なることで悲しさを思い出させてしまい、ごめんなさい。
いつも優しくて前向きな気持ちで私を見守ってくれて、ありがとう。


とらねこさま
ありがとう。
突然の報告に、すぐにお言葉をくださり感謝しています。
大切な猫の死に対し、心構えをすることは出来ていたと思います。
とらこさんにもお礼をお伝えください。


みらりんさま
ありがとう。
みらん、こりん、とらんの日々のお世話で大変なのに、トヨへのメッセージをありがとう。


かんちゃんさま
ありがとう。
私の気持ちに寄り添って、一緒に悲しんでくれてありがとう。
優しい励ましは、いつも私を救ってくれました。


こむこむさま
ありがとう。
ずっとトヨを見ていてくださっていたとのこと、ありがとうございます。
突然の報告になり驚かせてしまったこと、また、ご自身の辛い経験を思い起こさせてしまったこと、申し訳ありません。
私のことを気遣ったお優しいコメント、本当にありがとうございました。


うさぴょさま
ありがとう。
猫が死んでしまった後の辛さは想像以上でした。これまでの貴女の言葉や経験が、そんな私にとても役立ちました。
賢いクー様にも感謝しています。


てつこさま
ありがとう。
突然の報告になり、驚かせてしまい申し訳ありません。
火葬の日の朝、こちらは雲ひとつない青空が広がっていました。みーくん晴れでした。
みーくんのことを思い、空を見上げていました。


ぴか姉さま
ありがとう。
いつもトヨを好きでいてくれて、思ってくれて、ありがとう。
私のことまで気遣ってくださり、本当にありがとう。


よーこさま
ありがとう。
トヨを思い、一緒に悲しみ、涙を流してくれて、ありがとう。
私の心も思ってくれてありがとう。


凛りんさま
ありがとう。
優しく心強いお言葉をありがとうございます。
最期までトヨに触れていました。トヨは私を感じ続けていたと信じています。


emuさま
ありがとう。
突然の報告になり、驚かせてしまい申し訳ありません。
大掛かりな検査をしていないので本当の死因は推測するしかないのですが、少なくとも甲状腺機能亢進症が確定してからは長く生きていたと思います。ずっと腎臓も心臓も問題はありませんでしたよ。
健次郎くんからの教えは、私とトヨをかなり救ってくれました。改めて、ありがとうとお礼をお伝えください。


初めましてさま(お名前がなかったので)
ありがとう。
辛さは無くなりました。
私のことを気遣うお優しいコメントをありがとうございました。


コメントはせずとも、トヨの死を悼み、私のことを思ってくださった方々
本当にありがとうございます。











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揺れまくった。
何も考えられず、トヨの不在を嘆き、崩れ、心の歩みを止めたこともあった。
今でも、突然立ち止まることはある。
とは言え、トヨと過ごしていた年月の中でも立ち止まることはあった。
時には休む。これは私の性質である。


今の私がうっすら揺れることがあったとしても、揺れまくり何も手につかない、ということではない。
思い出すことはあるが、あの時こうすれば、とは考えない。
過去に囚われない。これも私の性質。


PTG(=post traumatic growth )という概念があることを知った。
私の今回の心的過程は、これだったのかな。これに近いものだったのかな。
まだ途上かもしれないけれど。


それもトヨに仕組まれていたのだとしたら、猫というのはなんと徳の高い生き物であろう。







もうひとつのトヨの『今日も眠いです』








いろいろと考えては、結果無駄に考え過ぎていることもあるけれど、立ち止まり、考えることそのものを止めることもある。


いろいろな経験を積み、望むとも望まなくとも経験することもあるけれど、立ち止まると、それが自分の一部になっていることに気がつく。


私は決して立派な人間ではない。叩けば埃は沢山出るし、墓場まで持っていく出来事も持っている。


何を言いたいのだ、私よ。


わからないんだよね。
相変わらず、まとまらない。


猫と暮らしていれば、何を言いたいのかまとまらなくても、別にいいや、とりあえず猫触っとこう、となるのだが。










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トヨが去って、2か月になろうとしている。
涙で霞んだ私の思いを、トヨがいつの間にやら喰らっていた気がする。
と、そのように思うことで、いつの間にやら日々を過ごすことが出来るようになっていたことを自分で納得していたのかな。
霞を喰らう猫など現実には居ない。


日々を過ごす中、トヨのことを考えない時間帯は確実にある。
トヨのことを、否、トヨが居ないことを考える時間帯も確実にある。
なんとも表現し難いが、それぞれの時間帯とも同じ私ではあるが、その違いというか落差というか、確かにある。


トヨが居ない暮らしを毎日実感している。
トヨが居たこと自体が嘘のように思えるのは事実。不思議な感覚である。











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猫が死んだ。
ただ、それだけ。
それだけの筈。


いろいろと考え、右へ左へと歩き回り、霞んで見えない中をそれでも歩み、結局はもと居た場所に戻ってきた。


もしかしたら、螺旋階段。
もと居た場所のようで、実は少しだけ、私の立つ位置は以前とは高さが違っている。
見える景色がその高さの分、つまり角度が変わった分、違っている。
そこに広がる景色は実は変わっていない。
周回した道程が経験だとする。
高さ、つまり角度の違いで景色が少し違って見えることは人間としての深みや重みのようなもの。


景色が変わった。
私はもと居た場所に立っている。
トヨが存在しない世界で暮らしている。
それまでとは景色が変わった。そこにトヨが居ないからだ。
螺旋階段ではなく、ただ一周しただけではないのだろうか。


トヨが居ないから、すごく考えてしまう。
何も考えずトヨを触り、いい気分になり、一緒にうたた寝していたことが、嘘のようだ。










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辛さ、寂しさ、とは違う。
トヨのことを考えることなく過ごすのも私であり、それは当たり前に日々を過ごす私である。
トヨの居ない景色が見えてしまい固まってしまう感覚になるのも同じように日々を過ごす私である。
私が二人いる訳はない。
でも、まったく違う私のようだ。


感情が追い付かない。
そんなことをひとつ前の記事に書いたが、この落差がそれなのかな。


本当は螺旋階段を周回したのだろう、と自分では思っている。
トヨは私の傍らから去ってしまった。
その分、自分から何かが減った、ということではない。














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とよちゃん。
私は、少しだけ、我慢しているのかもね。
そして、少しだけ、まだがんばっているのかもね。
でなければ、こんなにややこしく考えたりしないよね。
トヨが居なくても割と平気に暮らしているけど、少しだけ、がんばってそうしているんだね。










トヨから出された宿題は沢山ある。
提出期限はない。
時にはややこしく考えながら、それでも、答えにはたどり着けると思う。
案外シンプルな方法で解答へ導かれるかも知れない。
何処かにヒントがあればいいな。







もうひとつのトヨの『今日も眠いです』




トヨは霞を喰らっていた。
と、思えるくらい、泰然とし、飄々としていることがしばしばあった。








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烏にびびったり、雀にびびったり、そんなこともあったけど。
動じまくるのもまた、それはそれで猫らしくて素晴らしい。
















トヨがいないことが本当に当たり前になってきた。
どのくらい当たり前なのか、東京ドームで言うとはたして何個分なのかはわからない。何故に東京ドームに喩えてしまおうとしたのかもわからない。
どう言えばいいのか、部屋でひとり過ごしていても、もともとトヨはいなかったのかも、と思えるくらいに当たり前。
トヨがいた時は、ずっと前からもともといたような気がすることがあったけど、その逆。


なんとも言えない感覚である。
悲しいとか辛いとか、そんなんでもなく、ものすごい喪失感に襲われているわけでもなく、上手く言えないんだけど。
淡々としてる。んー、これもちょっと違う。


トヨの写真が目に入ると、あートヨは可愛いよなー、と思う。毎回。いつでも。
いや、本当に可愛かった。
皆さんちの猫も可愛いけど、どう考えてもトヨの方が可愛い。
どのくらい可愛いのか、東京ドームで言うとはたして何個分なのか。これも誰か計算すればいいと思う。
どう計算してもトヨの方が可愛いという答えになるだろう。
仕方ない。こればっかりは。反論はあるだろうが諦めてください。事実なのだから。











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ほらね、可愛い。









トヨ、何処行っちゃったんだろう。
とは思わない。
トヨと暮らしていたこと自体、なんだか嘘だったように感じられる。
嘘ではなく確かにいたのだけど、トヨはお骨になったのだけど、私の手の中で息を引き取ったのだけど、確実に全てを見てたのだけど。


今、トヨは私の傍らにいなくて、でもそれになんの違和感もなくて。
だからといって、そう感じることが悪いこととも思えなくて。


と、ここまで書いてたら、ちょっぴり切なくなってきた。
トヨを喪ったこと、というより、トヨが既に過去になってしまったことに対して感情がなくなったような気がしてた。
そんなことなかったね。


トヨがいないという事実を、正しく理解できていて、迷いなく受け入れていて、トヨのいない現実世界で後ろ向きではなく暮らしている。
そんな自分に少し追い付けていないのかな、感情が。
そういうことかな、と思う。
そんなことない、とも思う。

















知らぬ間にすっと私の生活に入り込み、気が付けばすっと去っていた。

















それだけトヨと私は……刎頸(ふんけい)の……


最近覚えたての言葉を使ってみようとしたけど、なんかしっくりこなかった。使いなれない言葉はそうやすやすと使ってはいけない、とまたひとつトヨから学んでしまった。


巧い言葉が思いつかない。


トヨと私は必ずしも一体ではなかったが、薄紙一枚を挟むくらいで一つに近かったのだろう。
と、表現してくれた人がいる。


だから、その実体が傍らにあろうとなかろうと、私は変わらずにここで当たり前に過ごせているのかもしれない。
魂とは何なのか、考えてもわからないし、わからなくてもいいかなと思う。
トヨの実体が失われたとしても私は結果変わっていない。
実際には少し変わったのだろうが、ともかく難しくは考えず、ただ生きようと思う。
それが一番難しいのだけどね。













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お前、ごちゃごちゃうるせーよ。
って顔してます。








俗人の私は、お腹空きました。
グラノーラに牛乳ぶっかけて食べることにします。






もうひとつのトヨの『今日も眠いです』







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