昨年の夏、トヨと共に今の部屋へやって来た。
事情があり、トヨとのふたり暮らしをすることになった。
楽しみだった。


部屋を探す時、自分の為にはあまり生活環境を変えたくないと思っていた。
トヨの為には、病院を変えたくない、と考えていた。
猫可の部屋でなければいけない、と考えていた。
脱走しづらい間取りがいいな、と考えていた。
玄関ドアの内側にもう一枚扉があると良いがもしも無ければ何か対策を練ろう、と考えていた。


知らない駅周辺の部屋もいくつか見たが、結局は今までと同じ駅を利用出来る今の部屋にした。









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網戸が無かった。
10階だから虫は入って来ないよ、と不動産屋には言われたが、万が一トヨがベランダに出ることがあってはいけないな、どうにかしなくてはいけないな、と思っていた。


古いマンションで、水回りも古い。
洗面台が無い。
ソファーをトイレとして使うトヨのために、ソファーには常にペットシートを敷き、その上にとキルトカバーを掛けていた。
オシッコをする度、それまでの部屋ではキルトカバーを洗面台で水洗いし、洗面台に水を溜め除菌漂白剤を少量垂らし、洗濯するまで暫く浸していた。


二間続きの部屋を間仕切る壁の上部には、空調のための隙間がある。
初めて内覧に訪れた日、この隙間が猫が人から逃げたり、ひとり過ごす為に猫にとってとても良い空間に思えた。
まだこの部屋に決めていない時から、壁を挟んでこちらと向こうに棚を置こう、段々になるようデスクも置こう、生活に慣れてきたら新しいタワーを買うのもいい、などと考えていた。


玄関ドアの内側にもう一枚扉があった。
理想的だと思った。



今の部屋は、それまでの部屋に比べ狭くはなるが、トヨとのふたり暮らしには充分な広さだった。








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網戸を作って欲しいと不動産屋に頼んでみた。
仔猫だとよじ登ることがありますよ、10階という高さから考えるともしも何かの弾みで網戸がその状態で外れるようなことがあると、かえって危険ですよ、と親切な忠告をくださった。
猫と暮らしたいという私の話から、どうやら仔猫を連れてくると勘違いされている様子だった。
トヨは網戸は登らない。
落ち着いていて、ビビりで、無茶な行動は取らない。
何より、網戸のままで私が不在にすることはない。在宅時は気をつけてよく見ている。
網が劣化する前に自分で張り替えることも出来る。
と、わざわざ説明まではしなかったが、費用をこちら持ちにするということで入居までに作ってもらうことにした。


引っ越し当日、引っ越し業者の作業員に棚をどう配置するのか、と訊かれた。
使い勝手を一緒に考えてくれ、いくつか提案もされたが、元々考えていたように壁の向こうとこちらに棚を配置した。
猫がここを登ったり降りたりするから、とその映像を頭に浮かべながら指示をした。


シリコン製の折り畳める盥を買った。
オシッコする度に、その盥でキルトカバーを洗い、洗濯するまではその盥にキルトカバーを浸した。


窓際には、新しくキャットタワーを購入し、置いた。
コンパクトで、シンプルなデザイン。
表地は拭き掃除がしやすいタイプの物を選んだ。
時々吐くことがあったから。










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早かった。
たった1年も一緒に過ごせなかった。
7か月と少ししか、この部屋に居てくれなかった。


ベランダに出るとき、窓の開閉に気を使う必要が全くなくなった。
窓を開ける度に、すぐに網戸に手を掛けては、あ、そうか、閉めなくていいんだ、と気づかされることが今でもある。


壁の上の空間には引っ越し初日から登っていた。すぐにお気に入りの場所になった。
トヨがいない今、そこは単なる隙間。
トヨはいないのに、時々見上げてしまう。
そして、いないことを改めて気づかされる。


シリコン製の盥はとても重宝した。
使わない時は畳んでお風呂のタイル壁に掛けられるようフックも取り付けた。
盥が乾かない内に次のカバーを洗ったり浸したり、しょっちゅう出番があった。
トヨが居なくなって一度も使っていない。使い途が無い。
すっかりお風呂の壁の一部になってしまったその盥をしっかりと目にしてしまうことがたまにある。あ、掛けっぱなしだな、とはっきりと意識させられる。


キャットタワーは綺麗なまま、今は花や写真を飾っている。
爪とぎの柱も綺麗なまま。
タワーで吐いたことはあったが、染みひとつない。臭いもない。猫の形跡が残っていない。











去年の今頃は、引っ越しの準備でばたばたしていた。
生活が変わることへの漠然とした不安のようなものが無かった訳ではないが、どちらかというとトヨとのふたり暮らしへの期待感の方が大きかったように思う。


今、私は何をしているのだろう。と、ふと思うことがある。
トヨの為だけという訳ではなかったが、今の暮らしを決めた理由の大部分をトヨが占めていたことは否めない。


私は、考え過ぎる傾向にある。
そんな性質であることは自覚している。


とりあえず今は、考え過ぎすに、今をただ生きようとしている。
そんなつもりでしばらく暮らしてみた。
後ろ向きではない。
ただし、前を向いてはいるが、先を見ていない。


小柄だったトヨは、お骨になり、更に小さく軽くなった。
花守になった私は、トヨへの毎日の水やりの代わりに花の水を毎日換えている。
日課になった。
何気ない日々。
しかし、時に、トヨの骨のことを強く意識してしまう。
触り心地の柔らかい骨壺カバーに変えたせいか、そのカバーは猫の柔らかい毛並みの感触を私に思い出させる。
一昨日、カバーごと骨壺を手に取り、胸に抱いてみた。
小さなトヨを胸に抱いた時の感覚が一瞬で思い起こされた。
生きていたトヨはもっと重かったはずだが、骨だけしか入っていないそれは、まるでそれがトヨそのものの重さのように思えてくる。
トヨであり、トヨではないそれは、やはりトヨである。
愛しさが私の内から溢れ出てきた。
止められなかった。
生きていたトヨにそうしていたように、両腕で包み胸に大切に抱いた。
目から水滴が落ちた。










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寂しさは残る。
と、言う人がいたが、その通りだ。






もうひとつのトヨの『今日も眠いです』