ここは都会のはずれにあるマンションの一室。
部屋の中で一番陽当たりのいい場所に、一匹のキジトラ柄の猫がかつて眠っていました。
猫の先生でした。
猫の先生は、猫を知らなかった住人に、猫について多くのことを教え、導きました。
十二年の歳月をかけてその役目を全うした猫の先生は、潔く住人の前から去りました。
猫の世界からやって来た先生は、猫の世界に戻っていきました。
猫の世界には、たくさんの、それはもうたくさんの、数えきれないほどたくさんの扉があります。
猫の扉です。
猫の扉は、人の世界とつながっています。
ひとつひとつの扉が、ひとりひとりとつながっているのです。
かつて、住人は、ある日突然開いたその扉を目にして、とても驚きました。
扉が開いただけではなく、そこから猫が入ってきたのですから、その驚きようといったらたいへんなものでした。
猫の先生は、目をまるくして恐る恐る自分に触れてくる住人のことが可笑しくて仕方ありませんでした。
猫の先生は、その教えを素直に学ぶ住人のことを頼もしく思いました。
すぐに大好きになりました。
猫の扉が開いた日から十二年間、住人は先生とずっと一緒に過ごしました。
猫のことをとてもよく知ることになりました。
猫のいる生活は特別なものとなりました。
猫を愛する人になりました。
住人は、猫の先生のことが大好きでした。
猫の扉は、ひとりひとりの前にありますが、そのままでは見えません。
扉が開いてはじめて、人はそれを目にすることができます。
扉は、猫の世界の側からしか開きません。
どの扉を開くのかは、猫が選びます。
選んだ扉の向こうには、猫に選ばれた人が何も知らずにいます。
住人は、どうして自分が猫の先生に選ばれたのか、わかりません。
不思議でした。考えても考えても、理由はわかりません。
けれども、先生とずっと一緒に暮らしているうちに、理由なんてどうでもよくなりました。
猫の先生と過ごす日々は、毎日が宝石のようにきらきらとしていました。
猫の先生と過ごす日々は、いつの間にか、当たり前のように住人の一部に、或いはすべてになりました。
住人の前に突如現れた猫の扉から入ってきた猫の先生は、十二年後、その扉から去っていきました。
猫の先生は、入ってきたときも去ったときも扉をきちんと閉めませんでした。
扉はいつも少しだけ開いたままでした。
住人は、扉が少しだけ開いていることに気がついていましたが、猫の先生が去ったあともわざわざ閉めることはしませんでした。
先生が戻ってくることはないとわかっていましたが、もしかしたら、と淡く期待してしまったからです。先生のいない現実にうろたえ、冷静ではいられなかったのでしょう。
猫の先生が戻ることは決してありませんでした。
住人は、少しだけ開いた扉をわざわざ大きく開いてみようともしませんでした。
たとえ扉を大きく開いても、先生が二度と戻ってくることはないからです。
最初からわかっていたのです。
猫の先生が、住人にそう教えていたのですから。
頭ではわかってはいましたが、住人は、日に日に虚しくなり、寂しさがつのり、何もする気が起きなくなってしまいました。
やがて、もう何もかもどうでもよくなってしまいました。
猫の扉はすぐ目の前にあるけれど、見ないようにして、見えないふりをすることにしました。
住人は、自分の心を閉じてしまいました。
季節が二つ変わりました。
猫の扉は、相変わらず少しだけ開いたままで放置されています。
その日、猫の世界では、嵐が激しい風を運び、強い雨を降らせていました。
風は、ごうごうと音を鳴らし、少しだけ開いた扉から吹き込みます。
大きな雨粒は、ばちばちと音をたて、扉を叩いてきます。
その騒がしさは、住人の耳に届きました。
見ないふりをしていた扉でしたが、住人は、実のところいつも猫の扉を気にしていたのです。
住人は、扉を閉めようかなと考え、立ち上がり、ちらりと、扉を見ました。
何か、小さなものが、見えました。
扉の向こうから、小さな猫が、住人を覗いていました。
猫の扉は、猫が開きます。
猫が開いてはじめて、人の目に見えるのです。
一度開かれた扉は、その先も少しだけ開いたままです。
なぜなら、猫は扉を開くことはできますが、閉じる方法を知らないからです。
人の世界へやって来た猫は、いつか必ず猫の世界へ戻ります。
たくさんの、それはもうたくさんの、数えきれないほどたくさんの扉から、今日も猫たちが入ってきます。同じくらい出ていく猫たちもいます。
あちこちで、新たに開く扉もあります。
突然開く扉に、勝手に入ってくる猫に、今日も多くの人たちが驚いていることでしょう。
けれど、その人たちは戸惑いながらもいつか誇らしく思うことになるのです。猫に選ばれたことに。
一度開いた猫の扉は、その先も少しだけ開いたままです。
いつの日か、人が閉じるまで。
閉じるとき、人は、少しだけ涙を流しますが、それは悲しいだけの涙でなないと、猫たちは知っています。
住人と猫の世界をつないでいる猫の扉は、今も少しだけ開いたままです。
あの嵐の日、扉を閉めようとしていた住人でしたが、強風に阻まれて扉はなかなか閉まりませんでした。
そうこうしているうちに、少しだけ開いたままだった扉は、気がつけばもう少しだけ大きく開いていました。
風のせいなのか、小さな猫が自分で押したのか、はたまた住人がそうしたのかはわかりませんが、小さな猫が入ってくるには、ちょうどぴったりの、それはそれは絶妙な幅でした。
閉じてしまった住人の心は、今はもう閉じていません。
再び開いたのがいつのことだったのか、あの嵐の日なのかその後なのか、住人にはわかりません。
ただひとつ言えるのは、猫は、扉だけではなく住人の心を閉じることもしないでしょう。
なぜなら、その方法を知らないのですから。
猫は、いつも、開くだけなのですから。
もつひとつのトヨの『今日も眠いです』