読書、というか小説好きになったきっかけは、松本清張。
そう他人に言う。
すると、大抵の場合、し、渋すぎる、と返される。
ですよねー。
あ、顔じゃないですよ。本の中身が好きなんですよ、念のため。
ま、顔もなかなか味わいあるけどね。
引っ越しのたびに、たくさんの本を処分している。
読み終えた本をずらりと並べて(場合よっては重ねて)おくことは快感であり、並べた(重ねた)本を見つめて、あぁ、こんなに読んだのだ私は、とひとり悦に入ることもまた快感でもある。
他人からすると、おそらく、気色悪い。
わかっている。
そう思われていることも踏まえて、快感なのである。
本好きはたぶん、ちょっとした変態なところがあるのだと私は考えている。
私だけではないと、根拠なく確信している。
物への執着がそんなに無いため、いざ処分というときには、割合スパッと手放す。
昨年8月の引っ越しの際も同様。
まだ読んでいなかった物と、なんとなく手放しがたい物だけを引っ越し用の段ボール箱に詰めた。
猫の率高し
あ。広辞苑は読み物です。
(カレーは飲み物です、の類義語)
そして、
懐かしい記憶です。
ね、とよちゃん。
5年近くも前のこととは思えない。
そんなに経ってしまっているんだね。
本を読み終えその余韻に浸る。
ということはそれほど無い。
読書中はその世界にどっぷり嵌まる。
だから、時間を忘れて一気に読むこともしばしば。
あとがきがあれば、それもじっくり読む。
著者や著書の紹介があればそれも読む。
そして、裏表紙を閉じ、本を両手で持ち、背表紙、表紙全体、そこにある文章や装丁を眺め、終わる。
余韻に浸ることもあるが、それよりもなによりも、何でもいいから次(の本)を読みたい、という欲求に駈られる方が強くなる。
読後どころか読中感も良い場合、読み終えた時の達成感や爽快感はあるが、その物語の世界から抜け出してしまった寂しさもあり、何か読まなくては、と感情が高ぶってしまうのだと思われる。
変態ぽい。
ダメな作品、これは私に合う合わないという好みの場合もあるが、要するにつまらないとか駄作とか、そういう場合、その読後感の気持ち悪さをとにかく打ち消したくて次を読む。
こんな本を私に読ませやがって、このやろー。
お前の書いた本なんかもう二度と読まねー。
読んだ時間を返せ、このやろー。
とこちらもまた違った意味で感情が高ぶってしまうのだと思われる。
変態ぽい。
つまるところ、なんだかんだと読み続けてしまう。
なんだかんだと変態ぽい。
ところで、猫のことをよく知らない人はご存知ないかも知れない。
私もかつては知らなかった。
トヨに教わった。
すごいね、猫は。
トヨの死後、1冊の文庫本が届いた。
2年くらいまともに読書していなかった。
忙しさに追われていたわけでもなく、ただなんとなく読んでいなかった。
届いたこの1冊の文庫本を読み終え、読書の病に冒されてしまった。
正確に言うのなら、表紙を捲った時。
いや、もっと早く。
おそらくは届いた文庫本を手にした瞬間から、既に病は再発していた。
新たに、本、買ってしまった。
読んでないからと共に引っ越してきた本があるというのに。
そして、件の文庫本の次に読み始めた本を読み進める途中でネット購入。
便利な世の中になった。
そして昨夜また更にネット購入。
読んでない物あるというのに。
明日か明後日にはクロネコヤマトが配達してくれる。
便利な世の中になった。
本屋で直接買うのなら、重たくなってしまわないよういっぺんに何冊もは買わない。
便利な世の中になった。
その分、いっぺんにお金も減る。
知らず知らずお金が減る。
ちょっと困る。
1冊の文庫本を送った人は、私のこの病を知ってたはず。
責任とってくれるのか。
左端に立ててあるのが、その本です。
角田光代の本は、別の人からの贈り物。
ビリーバットは先日トヨに手を合わせてくれた友人が貸してくれた。
皆の気遣いに感謝。
と、言いながらそれらを一番下に置く、という……(笑)
もうひとつのトヨの『今日も眠いです』
そう他人に言う。
すると、大抵の場合、し、渋すぎる、と返される。
ですよねー。
あ、顔じゃないですよ。本の中身が好きなんですよ、念のため。
ま、顔もなかなか味わいあるけどね。
引っ越しのたびに、たくさんの本を処分している。
読み終えた本をずらりと並べて(場合よっては重ねて)おくことは快感であり、並べた(重ねた)本を見つめて、あぁ、こんなに読んだのだ私は、とひとり悦に入ることもまた快感でもある。
他人からすると、おそらく、気色悪い。
わかっている。
そう思われていることも踏まえて、快感なのである。
本好きはたぶん、ちょっとした変態なところがあるのだと私は考えている。
私だけではないと、根拠なく確信している。
物への執着がそんなに無いため、いざ処分というときには、割合スパッと手放す。
昨年8月の引っ越しの際も同様。
まだ読んでいなかった物と、なんとなく手放しがたい物だけを引っ越し用の段ボール箱に詰めた。
猫の率高し
あ。広辞苑は読み物です。
(カレーは飲み物です、の類義語)
そして、
懐かしい記憶です。
ね、とよちゃん。
5年近くも前のこととは思えない。
そんなに経ってしまっているんだね。
本を読み終えその余韻に浸る。
ということはそれほど無い。
読書中はその世界にどっぷり嵌まる。
だから、時間を忘れて一気に読むこともしばしば。
あとがきがあれば、それもじっくり読む。
著者や著書の紹介があればそれも読む。
そして、裏表紙を閉じ、本を両手で持ち、背表紙、表紙全体、そこにある文章や装丁を眺め、終わる。
余韻に浸ることもあるが、それよりもなによりも、何でもいいから次(の本)を読みたい、という欲求に駈られる方が強くなる。
読後どころか読中感も良い場合、読み終えた時の達成感や爽快感はあるが、その物語の世界から抜け出してしまった寂しさもあり、何か読まなくては、と感情が高ぶってしまうのだと思われる。
変態ぽい。
ダメな作品、これは私に合う合わないという好みの場合もあるが、要するにつまらないとか駄作とか、そういう場合、その読後感の気持ち悪さをとにかく打ち消したくて次を読む。
こんな本を私に読ませやがって、このやろー。
お前の書いた本なんかもう二度と読まねー。
読んだ時間を返せ、このやろー。
とこちらもまた違った意味で感情が高ぶってしまうのだと思われる。
変態ぽい。
つまるところ、なんだかんだと読み続けてしまう。
なんだかんだと変態ぽい。
ところで、猫のことをよく知らない人はご存知ないかも知れない。
私もかつては知らなかった。
トヨに教わった。
すごいね、猫は。
トヨの死後、1冊の文庫本が届いた。
2年くらいまともに読書していなかった。
忙しさに追われていたわけでもなく、ただなんとなく読んでいなかった。
届いたこの1冊の文庫本を読み終え、読書の病に冒されてしまった。
正確に言うのなら、表紙を捲った時。
いや、もっと早く。
おそらくは届いた文庫本を手にした瞬間から、既に病は再発していた。
新たに、本、買ってしまった。
読んでないからと共に引っ越してきた本があるというのに。
そして、件の文庫本の次に読み始めた本を読み進める途中でネット購入。
便利な世の中になった。
そして昨夜また更にネット購入。
読んでない物あるというのに。
明日か明後日にはクロネコヤマトが配達してくれる。
便利な世の中になった。
本屋で直接買うのなら、重たくなってしまわないよういっぺんに何冊もは買わない。
便利な世の中になった。
その分、いっぺんにお金も減る。
知らず知らずお金が減る。
ちょっと困る。
1冊の文庫本を送った人は、私のこの病を知ってたはず。
責任とってくれるのか。
左端に立ててあるのが、その本です。
角田光代の本は、別の人からの贈り物。
ビリーバットは先日トヨに手を合わせてくれた友人が貸してくれた。
皆の気遣いに感謝。
と、言いながらそれらを一番下に置く、という……(笑)
もうひとつのトヨの『今日も眠いです』